May 7,2011
先日、1988年の映画の名作 『 レインマン 』と出会った。
名作である為、ご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、トム・クルーズとダスティン・ホウマン共演の自閉症を題材とした映画。
もちろん役者さん達のこと細かな演技やしぐさなどは、当時のアカデミー賞4部門獲得することにもうなづける満足の作品。
その中で感じた事は、やはり障がい者の日常生活とアメリカ国での早くからの障がいの認識。
映画は自閉症を取り上げたものであるが、日常生活のスケジュールが変わらない中では、本人も安心して過ごす時間を作る事が出来ていた。しかし、施設から一歩、日常社会に出ると、突然のトラブルも多く、本人が受け入れするには時間を要したり、困難を極めたりもする状況が待っていた。
このことから感じた事は、障がい者にとって施設も一つの選択肢として必要なんだということ。
先日、地方紙の東奥日報新聞で、東日本大震災での障がい者に焦点をあてた記事が目に入った。
その記事では、避難所での共同生活が難しいという障がい者専用の避難所を期待した声。
沢山の人の前ではパニックを起こしたり、夜中に叫び声をあげて迷惑をかける事や慣れない環境に溶け込めないなど、いろいろな理由がある様子。
今回は避難所の用意など難しかったかも知れませんが、今後の起こりうる災害の為にも、この声は大切にして欲しいです。
こうして思うのは、やはりまだまだ自分も、又、地域を支えるみなさんも障がいについてはまだまだ知らない部分、知ろうとしない部分があるのかも知れませんね。
1988年のアメリカの『レインマン』として自閉症の方が取り上げられたように、どんな形でも皆さんのなかに、障がいというものが優しく溶け込むような時間がくることを願っております。
March 27,2011
まず、このドキュメンタリーをご愛読して頂いき、心より感謝申し上げます。
私は、このドキュメンタリーを書くにあたり、同情して欲しいという気持ちは少しもありませんでした。
ただ、ひたすら、愛しい我が子に対して、どうしてこんな思いを持ってしまったのか。我が子へ懺悔(ざんげ)の気持ちがありました。
もちろん、私は福祉関係者であり、今まで障がいは、受け入れられますと何度も繰り返してきました。
だから、周りのみなさんに、後ろ指差されたり、白い目でみられる事ももちろん覚悟の上でした。
それでも書かないといけないと思ってしまったのは、子供が生まれて嬉しい事なのに、どうしてこんなに涙が出るのか、どうしてこんなに苦しむのか、どうしてその子を否定した未来を望むのか。
そう思ったら、「障がいは、いつかは受け入れらますよ」という表面上ののきれいなものだけでは、この世界は変えられないと思ってしまったんです。 障がいが少しずつ浸透し続けている現在でも、まだまだ心を痛める人も多いし、存在を否定してしまう人もいると思うんです。
だから、ドキュメンタリーの中にいろんな人へのそれぞれのメッセージを込め、書き上げました。
ちなみに、私は付いていました。周りのみんなが、自分の子供のように、我が子を心配してくれて、我が子の名前をたくさん呼んでくれた事。何度も可愛いと言ってくれた事。入院した三沢市立三沢病院も弘前大学付属病院の看護婦さんも、患者に不公平はないから、安心させようとしてのコメントだと思うんですが、「ミルクをあげるのにいつも取り合いになるんですよ。」と愛情ある言葉をかけてくれました。その度に、その度に、嬉しくて。きっと僕を、悪魔から救ってくれたのも、みんなの心配してくれる思いやりの心だったのかもしれません。
そうして考えると、我が子だけではなく、自分、いやみんな、いろんな人に支えられながら生きている。
だから、伝えたいと思ったんです。
受容はひとつじゃない。どんな思いを持ってもいい、時間がかかってもいい、未来に自信を持てなくてもいい、ただ今いるひとつの命、例え障がいを持っていても、愛情を持つことが出来れば、我が子を信じる事が出来れば、新しい未来を切り開いていけるんだと思います。
このドキュメンタリーにかけた思い、我が子だけの未来でなく、みんなが安心して過ごせる世界。
障がいの子供が生まれても、涙の数が減って、少しでも早く笑顔を取り戻せるように・・・・・
みんなが天使の手伝いをしてくれるように・・・・・
ドキュメンタリーブログ どうしようもない僕に降りてきた天使 あとがき 終わり。
March 10,2011
我が子が、にじんだドアの向こうに消えていった。
生まれてまだ4ヵ月と10日足らず。まだ体重も3000gそこそこで、ミルクも制限しながらの小さな体。そんな体で、生きる為に向かった未来への空間。私達は、ただ、それを見守り、神様に祈るしかできなかった。
切なく、果てしなく長い時間が流れた・・・・・。
手術は、1時間後無事終了。
手術室から出てきた我が子を見たら、嬉しくて、嬉しくて涙が出てきた。
先生からも、問題なく手術終了したと報告を受けた。
その後、我が子の麻酔が切れ、大声で、『ギャー、ギャー』かぼそい声を挙げる。
口には酸素があてられたまま。
かぼそい声は、泣き止まず、叫び続ける。
ここまで泣かれると、切なくて、切なくて、どうしようもなく、心の奥底まで響いてきた。
でもそれは、痛いよという言葉だけでなく、頑張って生きてるよという言葉にさえ取れた。
後日、主治医より、肝生検の結果、異常なしと説明があり、早々、9月9日の退院が告げられた。
入院してから3カ月。退院の日は、看護婦さんに、我が子の思いを代弁した、妻からの手紙(色紙)を渡した。手紙の中身は、沢山のありがとうと、これからここにくる私(我が子)の友達を宜しくお願いしますとの言葉。感謝の思いを込めながら、涙でのお別れになった。
こうして考えると、一つの命はいろんな人に支えられている・・・・・。
今、我が子は、、あの時と正反対のいたずら元気娘となって親の手を煩わせている。
親でありながら、我が子の命も思えない悪魔、障がいから逃げ出そうとした心の影。
しかし、我が子は、命を賭して、命の大切さ、障がいの意味・重さを教えてくれた。
小さな、小さな天使が教えてくれた。
そんな、どうしようもない僕に降りてきた天使は、今でも僕の隣で笑っている・・・・・。

長い間、ご愛読ありがとうございます。次回は、『あとがき』。
February 27,2011
手術当日の午前、僕たち夫婦は岩木山神社にいた。人間の最後の頼みの綱とでもいうのであろうか『神頼み』。
悪魔であった私もこの頃を境に、何が大切で、何が必要なのかわかってきた様な気がした。
我が子が生まれて約五カ月、激しくて、しかし温かく優しい時間が過ぎた。
そんな中、最後に待っていたのは、頭の中に描いた天秤(てんびん)。掛けられたのは、『我が子の命』と『障害を負わない人生』。
平衡を保つかと思われた天秤だが、『我が子の命』に大きく傾き、頭の中から天秤が一気に崩れ落ちた。
決め手になったものは、『もし我が子が、この世からいなくなったら・・・・・』 ただ単純にそれだけだった。
黒く染まっていた暗闇の心は、少しずつ淡い色を取り戻す。
負けたという感覚ではない。時間を通して教えられたという感じ。
岩木山神社の神様は、それをどう捉えたか。
神様には『手術が成功し、早く一緒におうちに帰れる様に ‼ 』と、何度も、何度も繰り返してお願いした。又、お守りも頂き、神社を後にした。
病院で待っていたのは、手術の為に、大好きなミルクを止められて、泣いていた我が子。
手術に備え、新品のプーさんの絵柄がついた手術着に袖を通してもらい、最後に僕と妻の思いをのせたお守りを添えた。
『大丈夫、大丈夫だよ。』何度も語りかけた。
でも本当は、不安で、不安でしょうがなかった。今回の肝生検(※1)で先生は、遺伝子や細胞、肝臓の線維化(※2)を調べると話していた。手術でのリスクは低いものの、切られる身体の痛みや肝臓の線維化、骨髄増殖性疾患(白血病)の関与性の生命の心配があった。
我が子は、麻酔薬が入り、深い眠りへ。
僕と妻は、我が子を、手術室へ見送る。
扉の向こうに消えていく姿を見ていたら、とめどなく涙があふれてきて、その涙を止める事が出来なかった。
次回へ続く
※1 肝臓の細胞を切り取り調べる手術
※2 内臓を組織している結合組織が異常増殖し、丈夫になるというか、柔軟性をなくして硬くなること
三沢市ダウン症サークル スマイルSUN スマイルSUNにゅーす掲載
February 14,2011
6月8日入院となった夜、妻は翌日の検査なども考慮し、弘前市内ホテルに残り、私は夜21時、三沢市に向け車を走らせた。一人で帰る我が家はとても切なかった記憶がある。
我が子は、翌日から検査検査の毎日、疑いのあった胆道閉鎖症は早い時期に否定された。しかし、肝機能障害が改善された訳ではなく、日々、先生方の試行錯誤は続く。
話は変わるが、弘前大学付属病院に入院以降、我が夫婦の山越えが始まった。自分たちの住まいは、太平洋に面した空に未来を乗せた街 三沢市。一方、我が子の将来を託した病院は、津軽の古都 弘前市。青森市街を経由すれば片道3時間はかかる長い旅路となる。又、当時、皮肉なことにガソリン値が高騰、レギュラーガソリンで、150~160円の時期でもあった。
そこで私達が選んだホットラインは、八甲田山系を超える山越え。このホットラインを通れば、2時間少々で済む。私は、このラインを、1週間に1回、仕事の休みに合わせて通ることになる。又、うちの妻は、この他に週2回、計3回山越えをした。検査のある時は、必ず駆け付ける様にしていたので週4回に及ぶ時もあった。もちろん全て天候が良い時ばかりではなく、青森市街を経由したことも少なくなかった。高速道路といったラインも考えられたが、退院日未定の長期入院であった為、家計的にもガソリン代以外の交通費はかける事ができなかった。
母親の凄さ・強さを知った時期でもあった。
こんな生活の中、私にも楽しみが出来た。我が子に会いに行く時間と妻が一人で行って帰ってきた時の我が子の情報である。
正直この頃から、自分の考えがわからなくもなっていた。この世の中、何が大事で、何が必要でないのか。
でも山を越える事に夢中であった事は確かだ。
恥ずかしい話だが、病院に夫婦で行った帰りには、病棟の前でも、車から見える病院の前でも、「また来るね、頑張ってね!」と声を合わせた。
我が子の病状は、便の色は改善したが、肝臓の数値は変わらない。検査の末、我が子は、一過性骨髄増殖性疾患と診断を受けた。先生方も、小さな身体に気を使い、なるべく傷つけないように配慮し、検査を続けてくれたが、改善はみられず、とうとう8月31日、肝生検(肝臓にメスを入れ細胞を調べる検査)を行う事になった。
次回へ続く。
三沢市ダウン症サークル スマイルSUNにゅーす掲載
January 26,2011
何度、『しょうがない』という言葉を口にしていたのだろう。次の日から、『はっ!』として口をつぐむことが増えた。心の中でも、否定的な言葉をかき消そうとする呪文を唱えていた。
5月下旬、大事な我が子に、次の試練が訪れる。今まで正常であった便の色が、黄白色・灰白色へと姿を変える。5月25日主治医より、新生児肝炎、もしくは、胆道閉鎖症の疑いがあると宣告された。新生児肝炎、いろいろな情報を集めたが予後の経過は良いようだ。一方、胆道閉鎖症、1万人に1人の確率で発症、さらに予後不良で『死』という可能性も決して低くない。
そんな中、通常では迷うことなく、新生児肝炎を祈る親の姿が想像されるだろう。しかし、僕は、胆道閉鎖症の期待を膨らませた。人の気持ちはあまりにも弱い。自分勝手で大事な我が子さえも思いやる気持ちを失わせてしまう。
心のひずみから抜け出そうとした僕は、再び悪魔へと姿を戻す。
頭の中は悪魔、しかし、周りの状況に関しては落ち着いて観察できていたような気がする。
我が子は、話しかけても、相変わらず笑顔を見せてくれなった。
その後も、賢明な検査、治療は続く。話は変わるが、ドクターの熱意や努力を一番感じた時期でもあった。いろんな文献を調べ、時間を費やし、我が子を助けようとしてくれた。
結果、6月8日、弘前大学付属病院への転院が決まった。
当日は、限られた時間を争う状態である為、救急車での移動となった。胆道閉鎖症となると、長時間の肝臓へのダメージが命にも左右される為である。そんな我が子の容態も考慮して、先生も同行してついて来て下さった。これ以上のない安心感を与えてくれた。
弘前大学附属病院到着後、我が子は、休む暇もなく、検査、その後、再び保育器の中へ。鼻から管、心臓周辺にもいろいろな管をつながれ、小さな体はさらに小さく見えた。
保育器を妻と囲んでいると、悪魔な僕にも、何故か、何故か、たくさん涙が出てきた。
あふれ出る涙、止めることが出来なかった感情。
『一緒に帰ろう・・・・・。早く・・・一緒に帰ろう・・・・・。』
我が子に向かって静かに、繰り返して語りかける僕がいた。
次回へ続く
三沢市ダウン症児サークル スマイルSUNにゅーす 第5歩 掲載
January 12,2011
次の日も、その次の日も、、悪魔の気持ちは悪魔のままだった。
ただ、そんな悪魔にも不思議な行動が一つだけあった。自分の子供に会いたかった。一日一回だけでも、眼で見て、手で触れて、声をかけたかった。
そんな私の思いを汲み取ってくれたかの様に、三沢市立三沢病院の看護婦さん達は、仕事でギリギリの面会時間に飛んでくる私を、忙しいにも関わらず、快く笑顔で迎え入れてくれた。正直嬉しかった。
途中、感染症からの貧血、輸血などの治療、思う様に体重が伸びない時期もあった。
そんな中、日々過ごした時間が、自分に変化を与えた。又、言葉として使い始めた。
「生まれてきたんだから、しょうがないよな。」、精一杯の覚悟のつもりであった。又、この言葉を前や後に使う事により、子供の事を受け入れられた様な気持ちにもなれた。こうして受容していくのかなとさえ思えた。
その後、幾分夜を越えただろう。
その日の夜も、何気なく「生まれてきたんだから、しょうがないよな」と定番のセリフ。
しかし、妻は、その言葉に対して、眼に涙を溜めながら、こう切り返した。
「しょうがないは・・・・・・・、やめにしよう・・・・・・。」
妻の頬を伝って沢山の涙がこぼれた・・・・・。
その時、気付いた。自分が発していた言葉の重さに・・・・・。
そう、生まれてきた命に、しょうがないはないんだ。
次号へ続く
(三沢市ダウン症児サークル スマイルSUNにゅーす 第4歩 掲載 ドキュメンタリー)
December 29,2010
『ダウン症候群の疑いがあります。』そう先生に告げられた。
何回も心の中でその言葉が反復した。すると自然に涙がこぼれ出した。流れて止まらなかった。隣を見ると妻も泣いていた。先生の言葉はそれ以上入らなかった。
正直ショックだった。
私は、福祉関係に勤めるスタッフ。『障がいは受け入れられる。』、『みんなが理解してあげる事が必要。』、そう当の本人や家族、周囲を支える人々に繰り返して言ってきた。しかし、そんな思いは、一瞬にして他人事に変わり、絶望の世界を思い描いた。その夜も、次の日も、なぜか自然こぼれ落ちる涙。『どうして、どうして』、そんな何の意味もない言葉が頭を巡る。
もちろんダウン症の言葉を知らなかった訳ではないが、詳細は分からなかった。『知りたい』と焦る気持ちが、パソコンのキーボードを叩く。並べられた、WEBサイト上のダウン症に関するブログ等。片っ端から開き続ける。
その中で、自分の中に入ってきた言葉。
高確率で発症する合併症、身体的な変形や知能発達の遅れ。覆いつくしたものはマイナスなものばかり。
真っ暗な空間が広がり、あきらめという感情も出てきた。
しかし、そんな暗闇の中、一つ輝いている言葉に眼を止めた。
『ダウン症は短命な場合が多い。』、・・・・・
『ははっ、救われた。』
そこには、ホッと気持ちをなでおろした僕がいた。
そう、いつしか僕は悪魔になっていた。
次号へ続く。
(スマイルSUNにゅーす 第3歩 掲載 ドキュメンタリー)
December 12,2010
平成19年4月18日、我が家にとって初めての子供が誕生した。
みんな誰しもだろうが、心待ちにしている瞬間。
一緒に働いている会社のスタッフ達も一同に『会いに行っておいで』といううれしい言葉。一目散に三沢市立三沢病院へ、高鳴る鼓動、早く我が子に会いたいという気持ちが僕を焦らせた。
しかし、我が子は、出産予定日より早い影響もあり、体重は2136gと低体重出生児で、出産後は保育器へ。肩すかしの状態となり、急かす気持ちが落ち着いたころ我が子との対面となった。
保育器の中にいる我が子は、とても弱々しく小さく見えたが、何にも変え難いうれしい気持ちが込み上げてきて、その場所から離れられなかった。
我が子を頑張って出産してくれた妻は、『この子が誕生した今日がどんな日であったか、どんな気もちだったであったか、いろいろ手紙に書いて残してあげようね。』とほほ笑んでくれた
とっても幸せな1日であった。
しかし、そんな幸せな日々に雲がかかった。
平成19年4月24日、先生から両親に話したいことがあると言われた。
面談する前、『今になってなんの話だろう?』、『まさか障がいがある? ははっそんなはずない。だって五体満足だろ。』と何度も悪い言葉を打ち消しながら病院へ。
帝王切開して、まだ強い痛みがある妻を右隣において、先生の言葉を待った。
先生は、私達の顔を見つめながら、ゆっくりと話を切り出した。
その説明の中、大事な、大事な・・・、我が子は・・・、
『ダウン症候群の疑いがあります。』と宣告を受けた。
次回に続く。
(スマイルSUNにゅーす 第2歩 掲載 ドキュメンタリー)
November 30,2010
ドキュメンタリーの前にちょっとCMです。でもいい話ですよ。
三沢市障がい者就労支援連絡会の第2段のイベント『八戸職親会企業見学』が11月26日(金)に開催されました。今回の内容は、八戸市内で障がい者の雇用を積極的に行っている『八戸市場寿司』と『しみず食品株式会社』の見学、又、八戸職親会の会員のしみず食品株式会社 代表取締役 田中 洋 様と八食センター直営会社統括店長 松本 恵治 様より、懇談会との事で貴重なお話を頂くことが出来ました。
しみず食品株式会社は、現在、障がいのある方を6名程雇用しており、勤務年数も7~8年と、以前より雇用に積極的に取り組まれています。その中で、代表取締役からは、『人より遅くとも大丈夫、自覚を持たせながら、時間がかかってもやれる仕事を提供して行きたい。人が生活して行く上で、収入も大事であり、一日2~3時間という現実味のない仕事より、長い時間の仕事をこなしてもらい、仕事・生活ともに責任持てるようにしたい。その為に、我々が出来る点を協力して行きたい。』と話しておりました。
又、八戸市場寿司は、2名の障がいのある方を雇用しており、今後も積極的な雇用を考えているようです。統括店長からは『障がい者を雇用するにあたって、障がい者だからといって区別はしたくなかった。』と話し、『一番に考えるのが、将来的な部分で、途中で辞める事になっても障がいのある方は次の就職が難しい。だから一生責任もって働いてもらえるような仕事や、人間として成長出来る、又、その親も成長出来る場所を提供したい。』と話しておりました。
その他、数々の貴重なコメントを頂き、感銘するものが多かったのですが、両方共に、会社の運営を一番には考えつつも、障がい者の方にあった、働きやすい環境作り、職場のバリアフリーを重視しており、社会貢献したい強い思いで取り組んでいらっしゃる事がヒシヒシと伝わって来ました。
八戸職親会は、今年で22年目を迎えるようですが、本当に障がい者の雇用拡大と定着を図るだけでなく、みんなが安心して過ごせる街づくりの行動が出来ていると思います。
私は、会社や仕事というものは、もちろん会社の運営や社会貢献など大事な役目があると考えますが、人間を成長させる為の場所とも考えています。
障がい者が働きやすい場所を作るということは、少なからず障がい者本人はもちろん、地域や会社のスタッフ方々も人間的に成長できるものではないかと考えます。
三沢市障がい者就労支援連絡会は動き始めました。又、制度も雇用主の後押しをしてくれます。
良い地域を作る為には、一人一人の力が必要です。何年かかってもそれは、きっと三沢市・おいらせ地区の財産に変わる事を信じています。